地名の由来

地名の由来

<小牧市>

地勢
 境川中流左岸に位置する。

地名の変遷
 〔近世〕村中村:江戸期~明治22年の村名。尾張国春日井郡のうち。当村から村中原新田村が分村。尾張藩領。小牧代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年境村の大字となる。〔近代〕村中:明治22年~現在の大字名。はじめ境村、明治39年小牧町、昭和30年からは小牧市の大字。大正13年の戸数143・人口749、同15年の田90町8反余・畑11町1反余(小牧町史)。大正前期に巾下耕地整理が実施された。村中小学校付近に境村役場が設けられた。純農村としてダイコン種・菜種・レンゲ種の生産が盛んであった。昭和40年に小牧ICが完成してからは、商工業の適地として発展。同50年一部が西島町・村中新町・弥生町となる。
 村高は、「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに817石余、「旧高旧領」1,272石余。「寛文覚書」によれば、本田の概高1,148石余、田50町余・畑21町余、概高5斗余の新田、入鹿郷新田高99石余、家数87・人数527、馬33。なお、当村の項目の後に村中原新田が書き上げられている。「徇行記」によれば、給知は1,101石余で横井弥三右衛門ら給人18、蔵入地116石余、家数116・人数427、馬7、なお、入鹿郷新田は「寛文覚書」と異なり、当村のあとに別個に書き上げられ、高99石余、ほかに享保12年縄入の新田21石余とあるが、「此新田ハ村中村ノ内ニ田畝入交リ民戸モ共ニ聚居セリ」とあり当村に含められていたと思われる。

寺社
 神社は、八幡・神明・天神。寺院は曹洞宗玉林寺。


<小牧市>

地勢
 大山川中流右岸に位置する。

地名の変遷
 〔中世〕ふミつ郷:戦国期に見える郷名。尾張国春日部郡のうち。「信雄分限帳」に「百拾貫文 尾州ふミつ郷相違 大炊なハ 長崎喜藤次」とある。〔近世〕文津村:江戸期~明治22年の村名。春日井郡のうち。尾張藩領。小牧代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年味岡村の大字となる。〔近代〕文津:明治22年~現在の大字名。はじめ味岡村、昭和30年からは小牧市の大字。大正初期に耕地整理が施行された。
 村高は、「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに232石余、「旧高旧領」289石余。「寛文覚書」によれば、本田の概高253石余、田15町余・畑3町余、概高1石余の新田、家数11・人数59、馬6。なお、入鹿出新田が当村の後に書き上げられ、高19石余、田1町余・畑3反余、家数1・人数8、馬1とある。「徇行記」によれば、給知212石余で園田重左衛門ら給人4、蔵入地41石余、家数32・人数101、馬4、なお、入鹿出新田は寛文2年縄入の新田と記されているのみである。天保12年の村絵図では田中村の庄屋が当村の庄屋を兼帯している。

寺社
 神社は、神明・山神。
 寺院は、曹洞宗薬師寺、同寺にあるおちょぼ稲荷は男性の運枳尼尊天を祀り、日本三大稲荷で名高い豊川稲荷の運枳尼尊天を女性と見立て、両方に参詣すれば霊験あらたかとして信仰を集めている(小牧市史)。


<小牧市>

地勢
 大山川上流域に位置する。

地名の変遷
 〔中世〕田中郷:戦国期に見える郷名。尾張国春日部郡のうち。江戸期の写しではあるが、文明15年5月の小松寺意趣に「尾州春日部之郡味岡愛藤山小松寺<田中郷内>」とある(小松寺文書/県史料叢刊)。また、熊野大社の御師がもつ旅宿があったらしく、同20年2月2日付旦那売券には「右件之旦那者、尾張之国かすかひの郡田中と申在所」と見える(潮崎稜威主文書/大日料8‐26)。天正12年の小牧・長久手の戦では「岩崎山、窪、青塚、田中郷、二重堀まて押詰陣捕候て、悉要害ニ拵」と、羽柴秀吉方が郷内に前線の砦を築き、また徳川家康はその本陣小牧山の北際から北東の方向「田中村未申」にむけ1丈あまりの土居を構築して秀吉と合戦したという(山本正之助氏所蔵文書・小牧陣所之者之咄伝之覚/同前11‐6)。〔近世〕田中村:江戸期~明治初年の村名。春日井郡のうち。同郡内に田中村が2ヶ村あったため、当村を東田中村、他の一村の田中村(現:清洲町)を西田中村とも称した。尾張藩領。小牧代官所支配。明治初年東田中村と改称。
 村高は、「寛文郷帳」784石余、「天保郷帳」では「古者東田中村」と肩書きされて784石余、「旧高旧領」1、265石余。「寛文覚書」によれば、本田の概高1、136石余、田47町余・畑18町余、ほかに概高6石余の新田、見取新田1町余、松山5町余、家数64・人数402、馬24。なお、田中入鹿新田として高92石余、田7町余・畑3町余、家数5・人数30、馬3が当村の項目のあとに書き上げられている。「徇行記」によれば、給知861石余で榊原左源次ら給人23、蔵入地281石余、田中入鹿新田は寛文2年縄入の入鹿出新田55石余、同前の入鹿郷新田37石余とあり、別に書き上げられていな。家数125・人数519、馬14。

寺社
 神社は、明神天王・八幡・山之神。
 寺院は、曹洞宗大照寺(もと心光院)・松林寺(もと自性庵)。


<岩倉市・小牧市>

地勢
 五条川中流右岸、濃尾平野東部に位置する。曽野遺跡のほか、神清院境内に古墳が残る。また居屋敷から古墳時代の遺物が出土した。

地名の変遷
 〔中世〕そのゝ郷:戦国期に見える郷名。尾張国丹羽郡のうち。「信雄分限帳」に「一、弐百貫<如意ノ郷相違>当知そのゝ郷 源五殿なハ 石黒枩」とある。天正12年の小牧・長久手の戦の際、羽柴秀吉方に占領された如意郷の替地として、織田信雄から石黒枩に当郷が宛行われたと考えられる。〔近世〕曽野村:江戸期~明治22年の村名。丹羽郡のうち。尾張藩領。小牧代官所支配。明治8年、一説には同15年当村と岩倉羽根は両村の境に郡南学校を設立。この頃の特産物として南瓜が有名であった。同22年豊秋村の大字となる。〔近代〕曽野:明治22年~昭和46年の大字名。はじめ豊秋村、明治39年からは岩倉町の大字。大正元年の戸数56・人口269。農業が中心で、米麦のほか蔬菜栽培が盛ん。特に輪切干大根は有名。昭和46年岩倉市曽野町・五条町となる。〔近代〕曽野町:①昭和46年~現在の岩倉市の町名。もとは曽野の一部。昭和52年南部中学校、同56年曽野小学校開校。昭和47年一部が小牧市曽野町となる。②昭和47~48年の小牧市の町名。昭和48年藤島町となる。
 村高は、「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに500石余、「旧高旧領」457石余。「寛文覚書」によれば、本田は概高457石余、田14町余・畑30町余で、ほかに見取新田が畑方2反余あり、家数54・人数296、馬13。清洲宿の加助郷に指定され、人足21・馬2が割り当てられた(岩倉町史)。また、村内を通る犬山街道の道作り人夫も出した。「徇行記」によれば、家数76・人数267、馬2、近藤文左衛門はじめ給人14人の給知で、岩倉街道(犬山街道)の東に農家が立ち並んでいた。

寺社
 神社は、氏神1社で、現在神明社と呼ばれ、天正12年の棟札が残る。寺院は浄土宗神清院がある。


<岩倉市・小牧市>

 〔近代〕明治22~39年の丹羽郡の自治体名。五条川中流右岸、濃尾平野の東部。曽野・岩倉羽根・大地・川井・大山寺の5ヶ村が合併して成立。旧村名を継承した5大字を編成。役場を岩倉羽根に設置。明治24年の戸数409、男931・女961、学校1。同年の濃尾地震で大被害を受ける。同25年豊秋尋常小学校設置。同39年岩倉町の一部となり、村制時の5大字は同町の大字に継承。


<小牧市>

地勢
 矢戸川上流域に位置し、地内を境川が流れる。

地名の変遷
 地名は、島状の自然堤防州に集落があることによる。〔近世〕西之島村:江戸期~明治22年の村名。尾張国春日井郡のうち。尾張藩領。小牧代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年和多里村の大字となる。
 村高は、「寛文郷帳」512石余、「天保郷帳」521石余、「旧高旧領」726石余。「寛文覚書」によれば、本田の概高705石余、田35町・畑10町余、入鹿新田高12石余、見取新田2反余、野方4町余、家数35・人数230、馬12、小牧宿の助郷村、小牧へ18町。「徇行記」によれば、給知は705石余で帯金九兵衛ら給人13、ほかに寛文2年縄入の入鹿新田12石余、三ケ一新田7斗余、延享元年縄入の子新田6石余、宝暦6年縄入の後子新田1石余は蔵入地、家数80・人数274、馬7。神社は、八幡(若宮八幡社)・神明・山神6。

寺院
 寺院は、曹洞宗常昌寺・日蓮宗実相寺。


<小牧市>

 〔近代〕昭和50年~現在の小牧市の町名。もとは小牧市村中・西之島の各一部。


<小牧市>

 〔中世〕戦国期に見える郷名。尾張国春日部郡のうち。「信雄分限帳」に、「一、五百貫文<小牧之内 中村郷相違 此外六百貫 南伊勢之分相違>御内(方)様」と見える。現在の小牧市内に比定される。


<小牧市>

 〔近世〕江戸期~明治11年の新田名。尾張国春日井郡のうち。もと二重堀村の一部、中根小左衛門によって開発され、享保12年縄入を受けている。その後分村したと思われるが、不詳。大山川中流右岸。尾張藩領。小牧代官所支配。明治11年二重堀村の一部となる。
 村高は、「旧高旧領」11石余。「徇行記」によれば、高11石余、田8反余・畑3反余、東西1町余・南北1町30間余の地域、二重堀村のうちにありと記されているが、同村とは別個に書き上げられている。中根小左衛門は東禅寺過去帳に「中根開発ノ先祖」とあり、延宝2年に没している。享保12年の検地帳には、小牧原の善左衛門と同徳左衛門の名が記され、分米11石余とある(小牧市史資料編4)。


<小牧市>

 〔近代〕昭和50年~現在の小牧市の町名。もとは小牧市小牧の一部。