地名の由来

地名の由来

<小牧市・師勝町>

地勢
 尾張平野中央部に位置する。「西春日井郡誌」は、昔、この村に6つの大石があり、この六石から地名が起こったと伝える。「地名考」も、「師は借字にて正字六石の約る也」とする。

地名の変遷
 〔古代〕六師里:平安期に見える里名。尾張国春部郡のうち。康治2年7月16日の尾張国安食荘立券文に「熱田宮御領 東如意五箇里百八十町」の1つとして「六師里」が見える(醍醐寺文書/平遺2517)。〔中世〕六師荘:室町期~戦国期に見える荘園名。春日部郡のうち。「建内記」永享3年3月8日条によると、「六師庄代官職」は万里小路家領であったが、尾張守護代織田常松が100貫文で請負い、被官の御厩野氏が代官支配をしていた。しかし、代官の「不法」により百姓逃散事件が起こり、万里小路家では相国寺大智院副寺正融を派して直務支配を企てた(大日古)。一方、3月17日に万里小路時房は御厩野と直接会うとともに織田勘解由左衛門尉に御厩野違乱を止めて百姓の還住を促すよう要請した(同前)。また、永享11年2月13日条・2月25日条および6月14日条によれば、「六師庄百姓」らは守護被官人の関与をめぐって派遣された相国寺の直代官と対立して訴訟を起こした。時房は尾張大円寺周喜蔵主と相談の上、彼を通じて永享11年度の年貢を収納した。永享11年6月23日条によると、「六師庄田所於保藤左衛門貞久」は甚目寺観音参詣に赴く途次、下馬の礼をめぐって溝口氏と口論となり、刺殺し合うという事件が起こった。時房はこれを契機に於保氏の田所給分を代官直務に移管しようと試みた(同前)。なお、嘉吉元年5月記紙背に「万里小路大納言家御領尾張国六師庄<号熊野庄>」と見え、一時、熊野荘とも称したらしい(同前)。同年3月8日には飯尾為種の臣小倉小三郎が代官に補されたが、年貢納入がしばしば延引するため、万里小路家では同年4月27日に代官得分を1,500疋に定め尊松丸なる者を補任した。地下支配は大円寺庄主嘉蔵主が行うことも定められ、領家による直務が実現しかけたが、同年閏9月6日には先に代官に任じられていた坂井七郎右衛門入道が荘内に乱入し「代官職競望」を主張している(同前)。嘉吉2年4月記紙背によると時房は直ちに守護斯波氏・守護代織田氏に「濫妨停止」を乞うたが実効はなく、万里小路家の支配は困難になったと考えられる。「信雄分限帳」に「六百貫文 むつし あつち殿」と見える。荘域は近世の六師村・熊之庄村を含むと考えられる。〔近世〕六師村:江戸期~明治22年の村名。春日井郡のうち。六ツ師村とも書いた。尾張藩領。小牧代官所支配。明治13年西春日井郡に所属。同22年市制町村制施行による六ツ師村となる。〔近代〕六ツ師村:明治22~39年の西春日井郡の自治体名。大字は編成せず。明治24年の戸数160、男395・女406、学校1。同39年師勝村六ツ師となる。〔近代〕六ツ師:①明治39年~現在の大字名。はじめ師勝村、昭和36年からは師勝町の大字。人口は明治9年746、昭和35年1,013、同55年5,662。六ツ師上法華講中に伝わる六ツ師神楽屋形は、昭和50年町有形民俗文化財、昭和35年に牟都志神社で発見された木造愛宕神立像は円空作のもので、同49年町文化財に指定された。昭和46年一部が小牧市六ツ師となる。②昭和46~49年の小牧市の大字名。昭和49多気南町となる。
 村高は、「寛文郷帳」778石余、「天保郷帳」779石余、「旧高旧領」1,272石余。「寛文覚書」によれば、本田の概高1,257石余、田57町余・畑15町余、ほかに明暦2年縄入の新田1石余、入鹿新田11石余があり、家数74・人数550、馬25、用水は木津川井筋、小牧宿の助郷村、名古屋へ3里、小牧へ1里、清洲へ2里。「徇行記」によれば、給知は237石余で給人は阿部肥前、蔵入地は本田1,021石余のうち引高148石余があり残高873石余、ほかに宝暦6年縄入の新田1石余、家数141・人数631、馬11。北里村(現:小牧市)の徳願寺新田は当村の八左衛門によって開発され、反別5町余、定納米4石余であったという(師勝町史増補版)。

寺社
 神社は、愛宕白山(牟都志神社)・児権現(児子社)があり、牟都志神社は「延喜式」神名帳に見える神社。
 寺院は、曹洞宗観音寺、日蓮宗長栄寺・普門寺・長福寺(清正礼儀堂)。