地名の由来

地名の由来

<小牧市>

地勢
 合瀬川中流域に位置する。天正12年の小牧・長久手の戦では羽柴秀吉が「岩崎山」に砦を築き、徳川家康方と合戦したという(山本正之助氏所蔵文書/大日料11‐6)。

地名の変遷
 〔近世〕岩崎村:江戸期~明治22年の村名。尾張国春日井郡のうち。当村から岩崎原新田村が分村、なお分村年代は不詳。尾張藩領。小牧代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年岩崎村の大字となる。〔近代〕岩崎村:明治22~39年の東春日井郡の自治体名。岩崎・岩崎原新田の2ヶ村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。明治24年の戸数230、男521・女499、学校1。同39年味岡村の一部となり、当村の2大字は味岡村の大字に継承。〔近代〕岩崎:明治22年~現在の大字名。はじめ岩崎村、明治39年味岡村、昭和30年からは小牧市の大字。明治39年味岡村の役場が置かれたが、昭和14年現在の味岡支所の地へ移転。同38年県営岩崎団地、また南岩崎台団地が建設され、人口が激増した。同54年一部が久保新町となる。
 村高は、「寛文郷帳」655石余、「天保郷帳」664石余、「旧高旧領」842石余。「寛文覚書」によれば、概高732石余、田41町余・畑14町余、ほかに新田概高6斗余、入鹿郷新田73石余、田6町余・畑1町余、見取新田の田畑3町余、木津用水懸り。枝郷に町屋があり、街道に沿い商売する者もいた。家数69・人数428、馬35。岩崎山は藩の留山で、ここから名古屋城築城や修理のために花崗岩が切り出された。「徇行記」によれば、給知495石余で成瀬織部ら給人8、蔵入地237石余、享保11年縄入の新田高8石余・田1町余、同年縄入の岩崎原午新田高12石余・田畑2町余、家数126・人数534、馬6。村内には新木津用水が380間、古木津用水が524間かかり、また小牧街道440間分の道路修理人足を出し、善師野宿の寄付人馬を出した。

寺社
 神社は権現社。寺院は、曹洞宗杲洞寺、ほかに観音堂。