河内屋新田の沿革
<小牧市>
地勢
境川上流右岸に位置する。
地名の変遷
地名は入鹿池築堤に技師として河内国から招かれた河内屋甚九郎が来て開発したといわれることによる。〔近世〕河内屋新田村:江戸期~明治22年の村名。尾張国春日井郡のうち。河内屋新田とも称した。入鹿池六人衆といわれる船橋仁左衛門によって寛永年間に開発されて成立。尾張藩領。小牧代官所支配。明治13年東春日井郡に所属。同22年境村の大字となる。〔近代〕河内屋新田:明治22年~現在の大字名。はじめ境村、明治39年小牧町、昭和30年からは小牧市の大字。大正13年の戸数67・人口374、同15年の田32町1反余・畑15町2反余(小牧町史)。集落は県道宮後小牧線の南北に集まり、布袋・古知野に近く生活のつながりは小牧市よりも江南市との方が強かった。工場立地に恵まれて急速に変貌した。
村高は、「寛文覚書」194石余、「天保郷帳」では無高、「旧高旧領」河内屋新田として194石余。「寛文覚書」によれば、田17町余・畑3町余、家数19・人数114、馬8、うち田畑1町余、高10石分は仁左衛門に与えられ除地となっていた。彼は河内国から来た土豪で入鹿池・河内屋堤なども彼の手によって築かれたという。なお、河内屋堤は幼川の水勢が強く数度押し流されたため、河内国から甚九郎を呼びよせ棚築という工法をもって築いたともいわれ、仁左衛門と甚九郎は別人であるともいうが判然としない(小牧市史)。「徇行記」では、一円蔵入地、家数35・人数147、馬5、地内札木には高札があり、新田開発に従事すればいかなる重罪も免除するとあったという。
寺社
神社は天王社。寺院は浄土宗高岸寺。