外之原の沿革
地勢
鯎川上流域の山間部に位置する。南北に貫く中央の谷あいを責川が玉野川(庄内川)へ流れ、責川周辺に集落が形成されている。
地名の由来伝
景行天皇42年内津に建稲種命を祀った際、その南方外にあるので外之原と称したとあり(内々神社古文書/高蔵寺町誌)、「地名考」にも「内津に対へたるもの歟」とある。
名所旧跡
大久手古墳があり、高蔵寺ニュータウンの開発から石室は玉川小学校側に復元されているが、昭和4年小規模な石室の中に人骨と高坏・偏壺を発見。人骨は発見当時頭部を北にしてほぼ原形を存していたという。
地名の変遷
戦国期は尾張国春日部郡外原。江戸期は春日井郡外之原村。外原村・外ノ原村・外野原村とも書いた。
明治13年東春日井郡に所属。明治22年玉川村の大字となる。明治39年高蔵寺村、昭和5年高蔵寺町、同33年からは春日井市の大字。
昭和34年1月1日外之原町・木附町・細野町となる。昭和56年一部が石尾台・押沢台・高森台となる。
寺社
社寺は、白山神社・大国主社、臨済宗林昌寺・真言宗延命寺(廃寺)。白山神社および八大竜王(かまど神)の祭礼には、剣刀流・検藤流などの棒の手、獅子屋台を中心に神楽獅子舞が行われた。また篠木合宿で使われた馬の塔の標具が残る。
記録
北に細野(20戸)、南に木付(木附)32戸の枝郷があった(徇行記)。『角川日本地名大辞典』抜粋