中志段味の沿革
地勢
庄内川左岸。
名所旧跡
古墳時代から室町期の集落遺跡である天白・元屋敷遺跡と湿ケ遺跡がある。
地名の変遷
江戸期は尾張国春日井郡中志段味村。以降上志段味村と同じ。
寺社
神社は諏訪大明神・熊野権現社・天王社・山神社。
記録
松山36町があり、山からの猪や鹿を防ぐために750間の鹿垣土居が築かれていた。「徇行記」によれば、「下志段味村ヨリツゝキ四区ニ分ル、江端島・郷島・山島・寺林島ト云」、雨池が13ヶ所あった。地内南部の平原は諏訪ノ原といい、大森村へ出る山道があった。寛政4年の村絵図では沖積地に集落や村社が見えるが、庄内川の氾濫のため、のち段丘上へ移転する。
明治41年諏訪原新田共済会発足。副業として諏訪原新田養蚕組合による生糸生産がある(守山市史)。昭和49年県立守山高校開校。『角川日本地名大辞典』抜粋