山口町の沿革
位置
矢田川上流。
名所旧跡
大坪・大六の縄文遺跡、塚原・吉田の古墳群、大坪・柳ケ坪の条里遺構などが分布する。
産業
瀬戸の焼物の発生は、11世紀中葉の平安灰釉陶窯である山口谷東奥の広久手古窯址群に始まる。
地名由来伝
山口の地名は三河国猿投山への入口であることによるという。
地名の変遷
〔古代〕奈良期~平安期は、山口郷。「和名抄」尾張国山田郡十郷の1つ。「和名抄」諸本に訓は付されていない。〔中世〕戦国期は、尾張国山田郡山口村。〔近世〕江戸期~明治22年は、尾張藩領 尾張国愛知郡山口村。明治22年市制町村制施行により愛知郡山口村となる。同39年幡山村大字山口となる。昭和30年からは瀬戸市の大字山口。昭和55・56・60年に八幡台1~9丁目・萩山台1~9丁目・菱野台1~4丁目・宝ケ丘町・八幡町・せいれい町・若宮町1~3丁目・広久手町・南山口町・上之山町1~3丁目・宮地町・今林町・石田町・大坂町・池田町・矢形町・柳ケ坪町・屋戸町・山口町・田中町・掛下町1~2丁目・吉野町・大坪町・白山町1~2丁目・緑町・海上町となる。
記録
明和4年の猿投山決壊の後、洪水で砂入地が増加、農間余業に薪をとり名古屋へ売り出し、瀬戸焼二番ものを知多郡周辺へ売り出した。弘化4年の村絵図には給知・蔵入地が入り組み、三州八草道・菱野村道、八割坂雨池など7か所の雨池などが見える。明治初期山口谷に蛙目粘土が発見され、窯業を興す人や瀬戸に山口蛙目の名で送られるようになった。明治27年珪砂を発見、ガラス原料として生産されるようになると、瀬戸地区は全国最大の生産地となった。
寺社
神社は、八幡(式内社山口神社)・神明・多度権現・富士浅間・八剣宮・山之神4。寺院は真宗高田派本泉寺、ほかに薬師堂・観音堂があった。『角川日本地名大辞典』抜粋