下品野の沿革
地勢
水野川上流域の小盆地。
名所旧跡
豊かな陶土と燃料の赤松に恵まれて、古く窯業地を形成し、多くの古窯址を残す。
地名の変遷
中世には上品野・中品野を含めて科野郷と呼ばれた。瀬戸市に合併する以前の東春日井郡品野町は江戸期の8ヶ村から成り、行政の中心は下品野にあった。江戸期は、尾張国春日井郡下品野村。明治13年東春日井郡に所属。同22年東春日井郡下品野・中品野の2ヶ村が合併して下品野村となり、大字下品野・大字中品野となる。明治39年品野村の一部となり、当村の2大字は品野村の大字に継承。大正13年品野町、昭和34年からは瀬戸市の大字。昭和40年鳥原町・窯町・品野町1~8丁目・落合町・八床町・北丘町・岩屋町となる。
記録
信州飯田街道筋にあり中馬の継馬地として栄えたが、のち上品野村も継ぎ立て地となり当村の駄数は減少、古くから陶工の株があり陶工19戸・竈屋17本とある。いわゆる瀬戸山離散によって他領に移住していた陶工が藩祖徳川義直に召喚され、慶長15年当村にも美濃国恵那郡水上村(現:岐阜県瑞浪市)から加藤新右衛門・三右衛門が帰ってきた。享和2年に藩の御蔵会所が設けられ製品を勝手に売れなくなった。文化年間に瀬戸村などで始まった新製染付焼を作ることはできず、摺鉢や半胴の類を焼き出すのみだったという。
寺社
神社は、神明社、山之神社。寺院は、曹洞宗久雲寺、全宝寺(阿弥陀堂)。ほかに長光院の廃寺跡があったという。『角川日本地名大辞典』抜粋