木曽川水系

木曽川水系

 愛知用水は、わが国における戦後(大東亜戦争後)初の大規模総合開発事業としてスタートした国家一大プロジェクトです。その着手に至る原動力は知多半島の方々の「安定した用水を確保したい」との長年の願望でした。用水が誕生するまでのご苦労の経緯は、地域の方々に語り継がれています。

 愛知用水は、水源を木曽川水系の上流部に求め、長野県王滝村と木曽町に跨る牧尾ダムに依存し、木曽川本流に位置する岐阜県可児市と八百津町に跨る兼山取水口(兼山ダム湖左岸)から取水された後、用水路は愛知県の尾張丘陵部をとおり、東郷町の愛知池(東郷調整池)を経て、知多半島南端の美浜町に至ります。
 農業用水、水道用水、工業用水を流す幹線水路延長112kmと農業用水を配水する約1,000kmの支線水路からなるこの愛知用水は、地域の生活及び産業を支える水の大動脈としてその役割を担い続け、中部圏の飛躍的な発展の礎となっています。
 完成間近の昭和36(1961)年7月7日に愛知用水通水記念の額面10円の切手が発行されたことにより、多くの国民の皆さんがこの「世紀の大事業」を知ることになります。
 この事業の特色として、事業の進め方が従前の国営事業と異なることが挙げられます。昭和25(1950)年に世界銀行による敗戦国復興開発融資を受け、アメリカ合衆国のシカゴに本社をおくコンサルタント E.F.A.(Erik Floor and Associates Incorporated)社が設計・監理を担当しました。さらに、昭和30(1955)年10月に愛知用水公団が設立され、政府が保証する公団方式での事業推進を図り、同32(1957)年11月三好池、牧尾ダム工事に着手する一方、支線水路は岐阜県と愛知県へ施行を委託しました。アメリカの進んだ土木技術、建設機械を用いることと相俟って、この間僅か4ヶ年足らずの昭和36(1961)年9月に完成(9月30日通水式)しました。

 その後、愛知用水供給地域は大きく発展しました。諸産業の急成長と水路周辺の開発が進んだことにより水道用水や工業用水の需要が急増しました。愛知用水は農業用水を都市用水へ転用するなど、時代の要請に対応しながら地域の生活及び産業を支え、中部経済圏の飛躍的な発展に貢献してきましたが、完成後20年を経過したころから、施設の経年劣化対策や管理の高度化を図る必要が生じました。
 昭和56年度から愛知用水二期事業を開始しました。新たな水源施設の建設(味噌川ダム(1996完成)、阿木川ダム(1990完成)の新設)、幹線の二連化・支線水路の管路化をはじめ、導水施設、調整池及び水管理施設の改築等を行うものです。また、牧尾ダムでは、昭和59(1984)年の長野県西部地震等によって貯水池内に堆積した土砂を除去し、貯水機能を回復しました。

 入鹿用水でかんがいされる地域は、愛知県犬山市、小牧市、大口町、扶桑町の2市2町でこの地域の農業は殆どが水稲で、一部に大豆の転作が見られます。水源である入鹿池は、犬山市池野地内にあり、おおよそ400年前の寛永10(1633)年に築造されました。香川県にある満濃池と比肩する日本屈指の農業用水の人造ため池です。
 この入鹿池は、幾度の災害に見舞われながら復旧・改修を重ねてきました。まさに愛知用水事業が着手しようとする昭和31(1956)年には用水路の不備や用水量不足、施設の老朽化などに対処するため、県営かんがい排水事業計画がまとめられていました。
 そこで、入鹿用水は用水が不足する受益地約100haに愛知用水を導水することとして、昭和32(1957)年に愛知用水事業に参加することとなったのです。

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諸輪第1開水路から愛知池を望む(正面は愛知池堤体)

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入鹿池(正面は取水塔)

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愛知用水・入鹿用水の流域図


 木曽川は、その源を長野県木祖村の鉢盛山(標高2,446m)に発し、木曽谷として名高い渓谷を中山道に沿って南南西に下って岐阜県に入り、飛騨川などと合流し、愛知県犬山市で濃尾平野に出て、南西に流下し、長良川と背割堤を挟み併流南下し、伊勢湾に注いでいる流域面積5,275㎢、幹川流路延長229kmの国内有数の大河川です。
 この木曽川の豊富な水は、古来より流筏、舟運などのほか、濃尾平野の大穀倉地帯の農業用水として利用され、近年になってさらに発電や都市用水と、中部経済圏の飛躍的な発展を支える原動力になってきました。
 その後も農業用水の水利用の合理化や安定的取水、あるいは都市用水の需要の急増に対処するため、木曽川の水を総合的に開発利用する必要が高まってきました。
 このような状況のなかで、昭和43(1968)年に「木曽川水系の水資源開発基本計画」が決定され、これにもとづいて、木曽川総合用水事業が実施されることになりました。


木曽川総合用水の要点を纏めると、次の4点となります。

①木曽川下流域の愛知、三重両県下の関係地域からなる濃尾第二地区に加え、
 上流部の岐阜県の木曽川右岸地区および岐阜中流地区を計画地域として取り扱う。

②木曽川第二地区の各既得用水を木曽川大堰に合口し、既得用水が慣行として
 取水してきた取水量54.12㎥/sを計画取水量25.64㎥/sをもって充足させ、
 この差分は新規利水の水源とする。

③木曽川右岸地区と岐阜中流地区は地区内水源の合理的な利用を図り、
 不足する水量は岩屋ダムに依存する。

④新規都市用水は②を水源とするほか岩屋ダムに依存する。


 このように木曽川総合用水事業は水源施設である岩屋ダムと水供給を行う木曽川用水の2つに分けられ、木曽川用水事業は、昭和41(1966)年に一旦、農林省により工事着手された後、昭和43(1968)年水資源開発公団が事業を承継したもので、昭和58(1983)年の3月に総事業費約926億円で事業を完了し、同年の4月より管理が開始されました。

 今回は、愛知県の木曽川用水地域を中心に、農業用水に纏わる水利事業の変遷を辿ります。
 なお、「きそ」は、正字体で「木曾」と表記されることもありますが、本文では常用漢字の「木曽」に統一しています。

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木曽川大堰

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海部幹線水路(正面は木曽川用水総合管理所)

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木曽川用水概念図(木曽川用水通水20周年記念誌より)


 日本のほぼ中央に広がる濃尾平野。そこに流れる我が国有数の大河川、木曽川、長良川、揖斐川。流域の人々はこれらを一筋の川と同様に考え、“木曽三川”と呼んで親しんできました。
 三川、それぞれの名前の由来は、古く木曽は吉蘇とも書かれていたことから、それが名の由来となったと考えられている木曽川、洪水が長良村に流れこんで以来、この名がつけられた長良川、そして揖斐川は斐荘(現、揖斐川町)を貫流して流下する河川として名付けられたといわれています。
 この地域の治水の難しさは、全国的にも有名で、輪中や水屋に代表される木曽三川特有の水防共同体を生み、治水史上著名な宝暦治水の秘話を残しました。
その後、明治の初期から国による河川事業(河川改修・ダム事業・砂防事業)が100年以上にわたり行われてきました。
 今日の木曽三川の流れが完全に分けられた形態は、オランダ人技師ヨハニス・デ・レイケによるもので、我が国近代治水事業の幕開けと位置付けられています。
 現在のように安心して農業が行えるような環境は、治水をはじめとする多くの人々の長年の苦労と農業水利施設の整備によってもたらされました。

 さて、木曽三川の中で最も大きな木曽川は、その源を長野県木曽郡木祖村の鉢盛山(標高2,446m)に発し、木曽谷として名高い渓谷を中山道に沿って南南西に下って岐阜県に入り、飛騨川などと合流し、愛知県犬山市で濃尾平野に出て、南西に流下し、長良川と背割堤を挟み併流南下し、伊勢湾に注いでいる流域面積5,275㎢、幹川流路延長229kmの河川です。

 この木曽川の下流域にある濃尾平野は日本でも大きい部類に属する海岸平野ですが、じつは、この平野は花こう岩がもたらした平野なのです。
 濃尾平野を構成する土砂は、主に木曽川流域に分布する花こう岩を原資としてつくられ、濃尾傾動運動により造られた堆積盆へ木曽川によって運び込まれたものですから、濃尾平野は花こう岩がもたらした平野となるわけです。

 今回は、この広大な濃尾平野を潤す、木曽川を水源とする「宮田用水」及び「木津用水」について紹介します。

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犬山頭首工(犬山市犬山)


注)濃尾傾動運動

 濃尾平野における沈降運動は濃尾傾動運動と呼ばれています。濃尾平野と西側の養老山地との境界に北北西-南南東方向に養老-伊勢湾断層と呼ばれる活断層が走り、それによって濃尾平野側が沈降し、養老山地側が隆起しています。濃尾平野地域は、東側(猿投山塊)で隆起しているために、全体としては西方へ傾いていく運動、すなわち傾動運動をしています。
 この運動は100万年ほど前から本格化し、現在も進行中であり、その平均の速さは年間0.5~0.6mmと考えられています。その結果、平野へ流れ込む河川は西方へ偏る傾向になり、運び込まれる土砂も平野の西部に厚く堆積していくことになります。

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木曽川水系の流域図