矢作川水系

矢作川水系

 愛知県の三大河川のうち、矢作川水系の矢作川本川から取水する明治用水と枝下用水は、歴史的な運命を背負いながら、西三河地方の産業発展の礎となって行きます。

 1880年に幹線が開通した明治用水は、矢作川から取水する最大級の農業用水路であり、その上流にある枝下用水(1890年開通)と共に西三河地方の乾いた碧海台地を潤し大農業地帯に変える原動力でありました。
 
 この二つの用水は、19世紀の初めに都築弥厚によってこの地域一帯(現在の枝下用水、明治用水地域を含む)の用水計画が作られたのですが、都築の死によってこの計画は頓挫してしまいます。その後、40年以上を経過した1874年に提出された明治用水の計画では上流部にあたる現在の枝下用水地域は除かれることになります。
 枝下用水がこの明治用水計画から除かれたことが、全国的にも珍しい農業用水を形成することになります。
 そこで、枝下用水の経緯について少し触れておきます。
 1880年の土地売買譲渡規則の施行によって農地の売買が可能となり、また明治政府が河川法によって河川開発事業を掌握する1896年の僅かの期間だけが、民間による河川水を水源とした農業用水開発が可能となります。枝下用水は偶然にもその時期に開削計画と事業が進められ、希有の企業的用水の事例となったのです。
 枝下用水の誕生は、西澤真蔵という商人(企業家)が「私財をなげうって」出来た私的な事業です。このように開削事業を続けることが出来たのは、幕藩政治と明治近代政治の移行期に生じた僅かな時代の隙間での出来事だったのです。

 こうして私的事業として完成した枝下用水は、ムラと水利とが一体をなす一般的な「ムラの水利秩序」とは異なり、枝下用水組合(枝下用水土地改良区となり現在では豊田土地改良区)が水利に係わる統一的な秩序を維持する形態となります。この形態は現在もなお続いています。

 また、開削後の枝下用水は、古田優先を主張する明治用水との紛争が絶えず、その力関係のなかで独自の運営方法を模索し、1902年には枝下用水普通水利組合を設立して私的企業から訣別します。

 しかし、1920年頃になると枝下用水の取水源の位置に三河水力電気会社の発電ダム建設許可が下りたことから工業化を進める国策のもとで、それと交渉できる大きな組織が必要となりました。
このため、1926年に明治用水と合併します。合併後も水源が異なることから実際の運営は維持するものの経営体としての実質は殆ど明治用水が握る事になります。そのため、枝下用水は明治用水組合の一支部に過ぎず、事業費予算も独自に立てることはなかったのです。

 戦後、政府は農基法農政のもとで農業に大量の予算を計上し農業生産力向上を目指します。
時を同じくして、高度経済成長期を迎える頃にはトヨタ自動車が日本の自動車産業を支えるようになり、1959年には挙母市が豊田市となり、農業事業費の受け皿となる組織体が必要とされるようになってきます。
 こうした状況を受けて1968年に枝下用水土地改良区として明治用水組合(1952年に土地改良区)から分離独立します。
 その後、枝下用水は「47災害」(1972年)の膨大な復興事業費の獲得を契機に豊田市域の農業を支える豊田市の枝下用水土地改良区として定着して行くことになります。

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枝下川神社近くの枝下用水路(豊田市平戸橋町)


 一方、明治用水は、弥厚の計画が実現へと動き出すのは、弥厚の没後、40年以上が経過した明治7(1874)年のことです。
 岡本兵松と伊与田与八郎の二人が、弥厚の計画を引き継ぐ形で用水計画を出願します。水路地となる村々の反対運動や幕末の行政府の混乱、資金の調達など、事業実現は困難を極めましたが、出資者を募ることで、明治12(1879)年、念願の工事が着工されました。
本流、東井筋、中井筋、西井筋の幹線全てが完成したのは、明治14(1881)年のこと、明治の世を代表する世紀の大事業との意味をこめ、「明治用水」と名付けられました。

 弥厚の計画開始から実に半世紀以上を経て完成した明治用水は、碧海台地の中を血管のように張り巡らされ、台地は次々と水田として開墾されていきます。
不毛の土地だった碧海台地は、大正時代には農業王国として、中原に位置する安城市が「日本デンマーク」と称して教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めました。

 まさに用水は、農業のみならずあらゆる産業の源です。本号では、この二つの用水の誕生から幾多の変遷、そして現在に至るまで、読者に出来る限り分かり易いように心掛けたつもりです。どうぞ、ご覧下さい。

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矢作川水系の流域図