川名の由来

川名の由来

川名の由来
 東海道(国道1号線)と矢作川が交差するあたりの往時の村名「矢作村」「矢作宿」に由来する。

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国道1号線・矢作橋

矢作川の概要
 一級河川。流長117km・流域面積1,830㎢ 。木曽山脈南部斜面を水源とし、岐阜・愛知の両県を流れる川。長野県下伊那郡に発する支流根羽川・上村川が、恵那郡上矢作町小田子で合流して矢作川本流となる。本流は恵那郡串原村の東南方を、愛知県境をなして南西流し、同村で明智川を合流して愛知県に入り、勘八峡で山地を出て、挙母盆地を貫流し、巴川を合流、三河山地と碧海台地の間の狭長な沖積平野を緩やかに蛇行し、安城市木戸付近で矢作古川を左岸に分流したのち、台地を東から西に切って三河湾に注ぐ。下流の三河平野は、わが国有数の農・工業地帯であり、この川の利用価値はきわめて高い。

矢作川(名倉川合流直前)-1

矢作川

やはぎ(矢作)地名の由来
 矢作りの技術集団「矢作部」が住む村を言う。現)岡崎市矢作町 国道1号線に架かる矢作橋・名鉄矢作駅辺り。
・矢作神社の社伝:大和武尊命が当地に駐留し、対岸の賊を平定するに際し、矢作部が川辺に自生する矢竹で多数(数万本)の矢を作り、献上したことで大勝したとある。

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矢作神社

みかわ(三河)の語源
 大和政権が東征に成功したのは、矢作川で得た弓矢のおかげと大和政権はこの川を「神の川・御河」と崇め、この御川が流れる国を「三河国」と名づけたのが始まりと推定される。

矢作川の初見
 寛永21年版「下学集」に「愚按、本朝参河風土記、有作矢河也」とあり(風土記/古典大系)、これが「三河国風土記」逸文と考えられるとすると初見史料となる。

古文献
 「類聚三代格」承和2年6月29日の渡船の増加を命じた太政官符によって造橋不可の大河であることが(国史大系)、また「催馬楽」貫川によって「矢矧の市」がたっていたことがわかる。
 十返舎一句「東海道中膝栗毛」
〔かくて二人も此処を立出で、宿はずれの松葉川を打ちこへ、矢矧のはしにいたる。欄干は弓のごとく反橋や これも矢はぎの 川にわたせば〕。
 短歌「夫木抄 藤原規隆」〔矢矧うへのにたてるかば桜いつか軒ばにならむとするか〕。
 「柿園詠草 加納諸平」〔風はやき矢作の橋のなかばよりま神にかかるむら時雨かな〕。
 民謡「岡崎五万石」〔天下取りたきゃ矢作の川の水で産湯を浴び直せ〕。

遺跡
 矢作川の河床より数基の井戸が確認され、縄文時代から中世にいたる遺物を出土する複合遺跡として矢作川中流域を考えねばならないことが明瞭になった。とりわけ矢作橋右岸下流の渡A地区の立会い調査で発見された、31点の墨書土器や鳥形木製品・墨付木片を含む奈良期末から平安期初頭に一括される出土遺物は、県下でも有数の遺物として評価できるものである。このうち「郡府」と記された墨書土器は古代の碧海ないし額田郡衙の所在をうかがわせる貴重な資料である(岡崎市史研究5)。

舟運
 慶長年間の改修工事によって寛文年間頃から発達した舟運は、上流で中馬や三州馬と結びつく形で隆盛をみた。矢作川を上る荷は、鉄・繰綿・樽・鋳物・土管・酢や農産物・水産物など多種で、多くは城下町岡崎で陸揚げされた。また上流では材木の筏流し・管流しが行われた。これら川を上下する荷を管理・統制して分一税をとるため、寛文年間東広瀬村(豊田市)に分一番所が設置され、享保3年に細川村(岡崎市)に移された。

岡崎城と六名堤
 1399年に、今の岡崎市に六名堤が築かれたのが治水事業の始まりで、1452年~1455年の間に、西郷弾正左衛門が岡崎城の築城にあわせ堤防を築き、流れを固定させた。

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六名堤から望む岡崎城

徳川家康と矢作川放水路
 徳川家康が1605年に治水の目的で米津清エ門に命じ、下流部の台地を開削し、今の矢作古川から川を付け替え、現在の矢作川の川筋が概ね出来上がった。

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よねづ橋

利水
 古くから農業用水として利用され、枝下用水・明治用水などの大規模な用水が明治期に開削された。

枝下用水路始点から500m地点上流を臨む-1

枝下用水

 近年、矢作川下流域の西三河地域における各種用水の需要増加に伴い、昭和46年に完成した矢作ダムを水源とした矢作川総合農業水利事業・西三河水道用水供給事業・西三河工業用水道事業が実施された。
 第1ダム:昭和46年竣工、堤高100m・堤長320m・有効貯水量6,310万㎥、最大出力6万kw、所在地串原村と旭町の間の閑羅瀬。
 第2ダム:堤高38m・堤長130m・有効貯水量92.2万㎥、最大出力3.12万kwの発電をはじめ、治水・用水などの多目的ダムとして利用されている。所在地川ケ渡。(3)~(10)出典『角川地名大辞典』

矢作村の沿革
 平安期、三河国碧海郡・額田郡矢矧。東海道と矢作川が交差する交通の要衝地である矢作に市が立っていた。鎌倉初期の矢作宿は当然矢作川の両岸にあったと見られ、碧海・額田両郡にまたがっていたと思われる。
 江戸期~現代、三河国碧海郡矢作村。明治11年碧海郡東矢作村と西矢作村が合併し、矢作村となる。明治39年中郷村・本郷村・渡村・長瀬村・志賀須香村・志貴村を合併し、矢作町となる。大正12年愛知電気鉄道(現:名鉄)開通、矢作橋駅・宇頭駅設置。
 昭和30年~現在の岡崎市矢作町となる。
・記録:治承5年3月に源行家軍と平家軍が矢作川を挟んで対陣した(平家物語・源平盛衰記)。
 承久の乱後、矢作宿に守護所や公文所が置かれ、往還する顕貴の宿泊施設を兼ねた邸宅を構えた。矢作宿は足利氏の三河支配の拠点となって政治的に重要な場所となり、都市化も進んで東西交通・周辺経済の中継地として大いに繁栄した。
 矢作橋は、慶長5~6年頃対岸の八町村との間に架けられ、寛永11年徳川家光の上洛の際、総欅造り208間の板橋となった。江戸期に10度の修復を実施。
 矢作川の洪水は、天文年間から明治22年までに103回を記録(旧岡崎市史)。
・名所旧跡:「ヤハキ薬師寺」・浄瑠璃御前の悲恋物語・足利軍と新田義貞らの軍の激戦(太平記・梅松論)。

矢作川のおもな支流
・岐阜長野の県境を流れる上村川
・長野県根羽村を流れる根羽川
設楽町~稲武地区を流れる名倉川
段戸山~足助地区を流れる段戸川
岐阜県恵那市から旭地区に流れる明智川
小原・藤岡地区を流れる犬伏川
下山地区・足助地区・松平町を流れる巴川
下山地区を流れる神越川
豊田市と岡崎市の境界を流れる郡界川
・岡崎市内を流れる大平川
・岡崎市内を流れる乙川
・岡崎市内を流れる男川
・岡崎市内を流れる占部川
・岡崎・西尾市内を流れる安藤川
・西尾市内を流れる広田川
・安城市内を流れる鹿乗川


川名の由来
 この川の河口の、旧)村名「市木村」を冠した川名。

市木川の概要
 流長4.884km、鞍ケ池を水源に、南西に流下して岩滝町・双美町を経て市木町に入り、水間町と川田町の境を流れ、寺部町で矢作川に注ぐ一級河川。

いちぎ(市木)の地名由来伝
 伝承では、イチイの大木があった所と伝える。


<豊田市和会町>

川名の由来
 この川が流れる村名「和会村」を冠した川名。

川の概要
 和会町地内を蛇行して伊勢湾岸道辺りで川名「猿渡川」になる。

かずえ(和会)の地名由来
 和会は、和親会合の意をこめて名付けられたと云われる(岡崎市史)。


<豊田市西田町>

川名の由来
 この川の河口の地名、碧海郡西田新郷村字「大風」を冠した川名。

川の概要
 挙母地区山之手辺りを源に大林町を経て西田町で猿渡川に注ぐ小川。

地名由来
 オオカゼは表記の通り「大風」が吹く高台の地を意味する。


<中根町>

川名の由来
 この川の河口の地名、中根町字「大切」を冠した川名(農業用水路)。

川の概要
 高岡中学校付近を源頭に南流し、中根町字大切を経て三河八橋駅付近で逢妻男川に注ぐ農業用水路。

おおぎれ(大切)の地名由来
 大切の由来は、原野を切り開き、田畑を大きく区割りしたことに由来する。


<吉原町>

川名の由来
 この川の水源地の地名、吉原町字「上藤池」を冠した農業用水路。

川の概要
 吉原町上藤池を源頭に吉原町地内を西に流れ、里町で逢妻男川に注ぐ用水路。

地名由来
 吉原町には上藤池・上細池・西藤池・下藤池・下細池・細池などの字地名が存在し、池の多い湿地帯であったことが推察される。


<挙母地区~高岡地区>

川名の由来
 村の前方を流れる川を意味した川名。各村に前川が存在した推察される。

川の概要
 新挙母駅のある丸山町を源頭に逢妻男川の左岸側を南流し、高岡地区を南流し、若林東町で逢妻男川に注ぐ。


<駒新町>

川名の由来
 この川の水源地の地名、駒場村字「(南北)毛無」を冠した川名。

川の概要
 駒新町地内を東流し、同地内で逢妻女川に注ぐ小川。

けなし(毛無)の地名由来
 毛無は木成の意味にて、樹木が茂った所から流れる川と推察される。


<本地町>

川名の由来
 この川の水源地の地名、本地村字「向山」を略した川名。

川の概要
 深田公園辺り(本地村字向山)を水源に聖心町→上丘町→屋下→田代町→村内→中宮田地内で逢妻女川に注ぐ小川(農業水路)。


<上郷地区~刈谷市>

川名の由来
 この川の河口の地名、刈谷市小垣江町(上・下)沢渡を「猿渡川」とした。

川の概要
 豊田市西出町の(東名高速道)辺りで、大風川と合流し、西南に流れ渡川・和会川・東山川・逢妻川を集めて刈谷市小垣江町(上・下)沢渡地内で境川に注ぐ流長5,000mの二級河川である。

8864_猿渡川(和会町)