地名の由来

地名の由来

地勢
 矢作川上流の山間地に位置する。

地名の由来
 北設楽郡稲武町は、昭和15年武節村と稲橋村が合併して成立。町名は、稲橋村と武節村の各1字を組み合わせた合併合成地名である。平成17年豊田市に合併、広域地名〔稲武地区〕となる。

武節村
 はじめ、三河国加茂郡武節町村、中世戦国期は三河国加茂郡武節郷、江戸前期からは設楽郡武節村、明治22年武節町・桑原・御所貝津・川手・黒田・小田木・富永の7か村が合併。昭和15年からは稲武町の大字。

稲橋村
 はじめ三河国加茂郡稲橋村、江戸前期からは設楽に編入、明治11年北設楽郡になる。明治22年、夏焼・稲橋・中当・野入・大野瀬・押山の6か村が合併。昭和15年からは稲武町の大字となる。平成17年から豊田市に合併、稲武町は稲武地区稲武町に、各大字〔夏焼・稲橋・中当・野入・大野瀬・押山〕は町になる。

稲武地区渓谷-1


 明治39年、東加茂郡旭村誕生。生駒村・介木村・野見村・築羽村が合併して成立。合併各村の大字を継承した29大字を編成。昭和30年、岐阜県恵那郡三濃村の一部を合併して8大字を加え、38大字の編成となる。昭和42年町制施行。平成17年豊田市と合併、旭町は旭地区となり、38大字はそれぞれ豊田市の町となる。


地勢
 足助川と巴川の合流点付近の河岸段丘上に位置する。

名所旧跡
 縄文時代の遺跡が6か所あり、なかには弥生・古墳時代の遺物を出土するものもある。大部分は平安期以降の遺物が出土。
 平安末期の飯盛山経塚、鎌倉期の飯盛山城跡、戦国期の足助城(真弓山城)跡、応永34年創建の曹洞宗香積寺、文正元年再建の足助八幡宮本殿(国重文)がある。また、光勝庵と呼ぶ寺もあった。大正13年現在の香嵐渓に町民が楓を植樹、昭和5年に香嵐渓と命名して戦後観光の拠点となる。昭和55年三州足助屋敷ができ、通年型の観光地となる。

地名の語源由来
 アスケは安住の地に由来する飛鳥・安住処と同義語と思われ、当地は古くから交通の要地であることから「足助」と表記したと思われます。

地名の変遷
 鎌倉時代から戦国時代は三河国加茂郡足助荘。その範囲は巴川上流の山間地域で旧)東加茂郡下山村・旧)足助町・旧)旭町と旧)松平町、及び北設楽郡の北部を荘域とした。荘内には仁木郷のほか大田加(大多賀)・野原村・阿摺村・介木郷・外下山内滝脇郷・戸島ノ郷中ナベタ村(加茂郡)、名倉郷・野入村(設楽郡)が在る。
 江戸期には、三河国加茂郡足助村となり、明治2年三河の伊那県支配地を管轄する伊那県足助支庁が置かれ、明治11年東加茂郡に所属し、その郡役所が置かれる。同22年、足助・中之御所・今朝平の3か村が合併して足助村となる。明治23年町制施行足助町となる。昭和30年盛岡村・賀茂村・阿摺村を合併し、合併各村の大字を加えた80大字を編成。平成17年豊田市と合併し、大字はそれぞれ町となり豊田市79町となる。広域地名として足助地区が残る。

記録
 明治30年伊勢神トンネルの竣工により、飯田街道は運送馬車の通行が可能となったが、同44年の国鉄中央線の全線開通によって物資の中継基地としての性格は薄れ、以後東加茂郡の政治・経済・文教の中心地となった。

足助の伝統的建物群保存地区-1

足助の伝統的建物群保存地区

足助川
 安住の地に由来する足助地区には川を愛でる風土があります。中馬街道に面した喧騒な町屋の表玄関と、足助川に面した屋敷の裏口とはまるで趣きが異なります。

4.(2).1) 足助川2-1

足助川と町屋

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地勢
 巴川とその支流郡界川流域に位置する。

地名の変遷
 明治22年下山村誕生。東加茂郡の〔黒坂・大桑・芦原子・小松野・東蘭・和合・荻島・神殿・平瀬・田平沢・栃立・黒岩・梶〕の13か村が合併して成立。同39年大沼村・富義村を合併し、11大字を加え24大字となる。さらに昭和31年額田郡下山村の一部を合併、田代・田折・蕪木・蘭村の4大字を加えて28大字を編成。この間昭和23年に一部が作手村に編入し、同村中河内となる。
 昭和31年額田町・東加茂郡下山村の各一部となり、中伊・一色・外山・保久・冨尾の5大字は額田町、蕪木・田折・蘭・田代の4大字は東加茂郡下山村の大字に継承。平成17年豊田市と合併、下山地区となり、大字は豊田市の町となり、22町を形成。

村名の由来
 村名は中世の足助荘下山郷による、と云われる。

マス釣り
 足助地区神越川・下山地区野原川では、マス釣りを通して川を愛でる文化が定着している。人が持つ六感覚すべて満足する川はふるさとの大切な風土資産。

20140319写真

野原川のマス釣り風景(野原川観光センター提供)

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地勢
 矢作川支流巴川中流域、炮烙山・六所山の西麓に位置する。

地名の由来
 松が繁茂していたことによると伝えられる。

地名の変遷
 戦国期三河国加茂郡松平、江戸期加茂郡松平村、松平郷ともいう。明治11年東加茂郡に所属。同22年市制町村制施行による松平村となる。同36年町制施行により松平町となる。同45年からは豊田市の大字。昭和48年から豊田市松平町となり、松平地区は21町となる。


地勢
 矢作川左岸中流域の低地と山間部をしめる。

名所旧跡
 この地域には弥生時代から平安期までの複合遺跡である高橋遺跡がある。高橋郷は「和名抄」三河国加茂郡八郷の1つ。白鳳期の古瓦を出土する牛寺廃寺(野見町)や「三河国内神明名帳」に「正五位下野見天神」と見える式内社野見神社のある野見山町も当郷に含まれる。

地名の変遷
 奈良期~平安期は三河国加茂郡高橋郷。平安末期~戦国期は加茂郡高橋荘。豊田市(挙母・保見・猿投・高橋・松平・藤岡小原)地区、みよし市にまたがる大荘園。
 明治39年西加茂郡高橋村。(寺部村・益富村・野見村・渋川村・上野山村・市木村・平井村の7か村と元山中を除く四谷村が合併して高橋村成立)。益富村・野見村・四谷村の大字を継承した11大字に寺部・渋川・上野山・市木・平井を加えた16大字を編成。
 昭和34年豊田市高橋町となる。同時に各大字は町となる。
 昭和45年豊田昭和46年一部が高上となり、同56年水間町の一部を編入。


地勢
 矢作川中流域左岸に位置する。

地名の変遷
 明治39年西加茂郡の七重村・石下瀬村・中野村・富貴下村の一部と四谷村元山中が合併して石野村成立。合併各村の大字を継承した22大字を編成。村役場は石下瀬に置く。明治30年猿投町の一部となり、村制時の22大字は同町の大字に継承。昭和45年豊田市石野町となる。同時に各大字は石野地区24町となる。

記録
 明治23年石野農協発足。


地勢
 矢作川上流右岸に位置する。

地名の由来
 小墾の転訛で、小さな開墾地の意味であろうと云われている。
 オは山尾根の尾、バル野原の「原」と開墾のハル「墾」を兼ね、山里の地を表現した地名と推察される。

地名の変遷
 戦国期は三河国加茂郡小原村。
 明治時代39年西加茂郡〔小原村・豊原村・福原村・清原村・本城村〕の5ヶ村が合併して西加茂郡小原村成立。合併各村の大字を継承した44大字を編成。村名は、古くから小原郷・小原谷・小原之内と称したことにより小原村とした。昭和48年東市野々・小(こむれ)が東郷となる。平成17年4月1日から豊田市小原町となる。

災害
 昭和47年集中豪雨に見舞われ、山崩れ・崖崩れ・山津波による被害が多発し、死者31人・行方不明1人・重傷32人を出した。

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地勢
 矢作川中流右岸に位置し、瀬戸市・土岐市と猿投山を挟んで接する。また、猿投山分水界で矢作川水系と庄内川水系が境する。

地名の変遷
 明治22年西加茂郡の西中山・深見・田茂平・迫・飯野・北一色・石飛の7ヶ村が合併して藤河村成立。村役場を飯野に設置。明治39年西加茂郡内の藤河村・高岡村と富貴下村の一部が合併して西加茂郡藤岡村誕生。昭和53年藤岡町となる。
 平成17年4月1日から豊田市藤岡地区となる。19大字はそれぞれ町となる。

村名の由来
 藤河村・高岡村の各1字を合わせ藤岡と命名。

藤岡19大字
 大岩・西市野々・三個・石畳・白川・北曽木・折平・上渡合・木瀬・石飛・北一色・飯野(藤岡飯野町)・迫町・深見・田茂平・御作・上川口・下川口・西中山。


地勢
 猿投山南麓から矢作川右岸に位置する。

地名の由来
 サ・ナゲは狭薙(さ・なぎ)の転にて、大雨のたびに表層が崩れる山を表現した地名と推察される。
 猿投山は花崗岩の山で、表層は降雨で侵食されやすい花崗岩の風化した眞砂が覆っている。

名所旧跡
 縄文晩期の神郷下遺跡、地家・神郷・広沢・池田古墳が発掘されている。仲哀天皇元年創建とする猿投神社は、式内社で三河三宮、旧県社として著名な古社である。字鷲取に大碓命陵がある。

地名の変遷
 戦国期、三河国加茂郡高橋荘猿投郷。江戸期、加茂郡猿投村。明治11年西加茂郡に所属。同22年広沢村の大字猿投となる。明治39年上郷村・広沢村・富貴下村・西枝下・西広瀬が合併して猿投村成立。合併各村の大字を継承した。
 昭和28年猿投町。昭和30年石野村・保見村を合併、合併各村の30大字を加え43大字となる。同42年からは豊田市の大字猿投。昭和45年豊田市の猿投町となる。

寺院
 永正3年創建という浄土宗摂取院をはじめ竜生院・光明院などがあった。昭和6年曹洞宗猿投山東昌寺建立。

記録
 天正4年佐久間信直は猿投神郷の人夫を免除し、同14年織田信雄が猿投郷・神郷を猿投社に寄進した。猿投神社観音堂の北側にある大悲殿経塚は明和3年に一字一石経を納め建立したもの。翌年猿投山に山津波がおき、神社境内の堂社・社家・寺院すべてが押し流された(豊田市史)。
 大正5年猿投山表参道や裏参道に約150個の水車があった(猿投町誌)。