地名の由来

地名の由来

地勢
 寧比曽岳の西南、巴川に注ぐ神越川と上流金蔵連川・田ノ士里川流域に位置する。集落は御内蔵連本郷と金蔵連・田ノ士里に分かれる。

地名の由来
 金蔵連の地名は、武田信玄の金鉱跡が何か所かあることにちなむと伝える。「御内蔵連誌」は、長田権太夫なる者が来て金掘り吹分けをしたと伝える。権太夫は文正元年没。なお、金蔵連の八幡神社の応永25年の棟札には「金沢村氏中」、文明19年の鰐口には「ゴンサヲレ八幡御前」とある。

名所旧跡
 金蔵連地内に縄文時代の東切遺跡・下切遺跡、本郷地内に縄文時代の中島遺跡がある。東切遺跡では古代・中世の遺物も出土。

地名の変遷
 中世末期から江戸初期にかけては三河国御内蔵連村と金蔵連村。金蔵連村には枝郷田之士里があった。江戸期は三河国加茂郡御内蔵連村。幕府領・重原藩領を変遷。明治11年東加茂郡御内蔵連村、同22年金沢村の大字御内蔵連となる。明治39年賀茂村大字御内蔵連、昭和30年からは足助町の大字御内蔵連。平成17年から豊田市御内町となる。

寺社
 本郷・金蔵連それぞれに八幡神社がある。

記録
 慶安年間に大洪水・山崩れがあって困窮したと伝える(御内蔵連誌)。昭和43年神越開発組合を結成して、マスの養殖を始める。


地勢
 炮烙山の北麓に位置する。

名所旧跡
 縄文時代の馬場遺跡があり、住居址8(早期5・前期2・後期1)と多量の土器片を出土。

地名の変遷
 江戸期は三河国加茂郡下平村。明治11年東加茂郡下平村、同22年豊栄村の大字下平となる。明治39年盛岡村大字下平、昭和30年からは足助町の大字下平。平成17年から豊田市下平町となる。

寺社
 厳島神社がある。


地勢
 巴川左岸支流佐切川の上流に位置する。

地名の変遷
 江戸期は三河国加茂郡上佐切村。明治11年東加茂郡上佐切村、同22年盛岡村の大字上佐切となる。昭和30年からは足助町の大字上佐切。平成17年から豊田市上佐切町となる。
 御鍬神社があり、境内社として大洗磯前神社を祀る。

記録
 明治20年佐切尋常小学校(現:佐切小学校)開設。


地勢
 巴川左岸に位置する。

名所旧跡
 下佐切城跡、広畑古墓があるが、いずれも由緒不詳。

地名の変遷
 江戸期は三河国加茂郡。明治11年東加茂郡下佐切村、同22年盛岡村大字下佐切。昭和30年からは足助町の大字下佐切、平成17年から豊田市下佐切町となる。

寺社
 津島神社があり、境内社として御鍬神社・秋葉神社・山ノ神神社・浅間神社を祀る。


地勢
 巴川左岸に位置し、南部は鏡川が西流する。集落は山上の小起伏面と鏡川沿いにある。

名所旧跡
 古代・中世の祭祀遺跡が山上にある。

地名の変遷
 江戸期は三河国加茂郡下国谷村。明治11年東加茂郡に所属、同22年盛岡村大字下国谷、昭和30年足助町大字下国谷。平成17年豊田市下国谷町となる。

寺社
 熊野神社を祀り、境内社として御鍬社・神明社がある。


地勢
 巴川の左岸に位置する。

名所旧跡
 昭和40年に完成した香嵐渓スケートセンター。縄文時代の塩平遺跡・野林本郷遺跡がある。

地名の由来
 合併した大野村と籠林村の各1字をとった合成地名。

地名の変遷
 明治8年加茂郡〔大野村と籠林村〕が合併して野林村成立。明治11年からは東加茂郡野林村。明治22年盛岡村の大字野林となる。昭和30年からは足助町の大字野林、平成17年から豊田市野林町となる。


地勢
 巴川の左岸に位置する。

旧跡
 仲田遺跡があり、縄文時代~鎌倉期の遺物を出土。足助七城の1つに数えられる臼木ケ峰城跡がある。また別に古城跡があるが、由緒不詳。

地名の変遷
 江戸期、三河国加茂郡岩神村。明治11年東加茂郡岩神村、同22年東加茂郡盛岡村大字岩神。
 昭和30年東加茂郡足助町大字岩神。平成17年から豊田市岩神町となる。


地勢
 巴川に注ぐ神越川の支流葛沢川流域に位置する。

地名の変遷
 江戸期は三河国加茂郡葛沢村。明治11年東加茂郡葛沢村、同22年金沢村の大字葛沢となる。明治39年賀茂村大字葛沢、昭和30年からは足助町の大字葛沢。平成17年から豊田市葛沢町となる。

寺社
 八幡神社がある。元来は堂庭薬師を鎮守としたが、江戸期に正八幡宮を京都吉田御殿から勧請し、その後御鍬大明神を伊勢外宮から勧請したと伝える。境内社に津島社がある。堂庭稲荷は、江戸初期に京都伏見稲荷を勧請と伝える。寺院は浄土宗宝樹院があり、開山利洞上人は大永元年没と伝え、江戸末期製の仏足石がある。
 菰弟子の滝があり、巨岩正面に「不動明王尊像」、左右に「石川家為武運長久、村井貞次建之、奉行中根次兵衛正俊、同断大山□□、文政二己卯年五月六日」とある。8月の盆行事として夜念仏が行われる。

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地勢
 巴川流域、集落の大部分は右岸に位置する。

名所旧跡
 縄文時代の則定本郷遺跡・シメ土遺跡・仙元遺跡がある。則定城跡と椎城跡が在る。椎城跡二の丸に同城城主鈴木重氏墳の古碑がたつ。

地名の変遷
 江戸期は三河国加茂郡則定村。明治11年東加茂郡則定村、同22年穂積村の大字則定となる。明治39年盛岡村大字則定、昭和30年からは足助町の大字則定。平成17年から豊田市則定町となる。

寺社
 村内には産神宮・秋葉社・しゃくじ社・若宮社と十六羅漢・薬師堂・観音堂・寺(禅宗心月院)があった(足助町深見家文書)。産神宮は熊野神社、心月院は石平道人鈴木正三和尚の創建で曹洞宗。十六羅漢を祀る羅漢山で天保2年から慈本豪英尼が千日の念仏行を行った。

記録
 明治14年盛岡郵便局開局。


地勢
 巴川流域に位置する。
 明治11年東加茂郡の〔寺沢村・近岡村・井ノ口村・田振村・大島村〕が合併して追分村成立、同22年盛岡村の大字となる。昭和30年からは足助町の大字。平成17年から豊田市と合併、追分地名は消滅。合併時の村がそれぞれ近岡町・井ノ口町・田折町・東大島町となる。

地名の由来
 飯田街道と岡崎街道の分岐点であることによる。縄文時代の遺跡が多く、吉田・林・仏田・追分山ノ神・田中・ウシエの各遺跡がある。また、成瀬城・田振城・井ノ口城・大島城の古城跡もある。