地名の由来

地名の由来

地勢
 矢作川水系籠川支流伊保川流域に位置し、旧)尾張国と境界を接する。

名所旧跡
 式内社射穂神社、印文を「伊保郷印」とする、全国的にも貴重な平安期の郷印が現存(豊田市蔵)。白鳳期の古瓦を出土する白鳳寺遺跡。伊保遺跡、保見町・東保見町に所在。弥生時代~古墳時代にかけての集落遺跡。伊保川左岸の標高約70~75mの段丘上に東西1.4km・南北150mの範囲に帯状に分布する。弥生後期から古墳時代にかけての竪穴住居跡15・井戸状遺跡・溝状遺構・土壙を検出し、弥生式土器・古式土師器・須恵器・灰釉陶器・山茶碗、古墳時代の鋤・鍬・弓などの木製品が出土した。溝状遺構から出土した多量の古式土師器や円筒埴輪は遺跡の性格を知るうえで貴重な資料である。遺跡の初現は弥生中期で、後期から古墳時代にかけて全盛期を迎えたものと推定される。

地名の由来
 イボは漢数字の五百を指し、家屋の戸数、あるいは水田が多く集まった郷を表現した地名と推察される。

地名の変遷
 奈良期~平安期、三河国伊保郷(三河国加茂郡八郷の1つ)。南北朝期~戦国期、加茂郡高橋荘伊保郷。江戸期、加茂郡伊保郷。
 明治22年西加茂郡伊保郷の田籾・伊保堂・上伊保・殿貝津・下伊保の5ヶ村が合併して伊保村となる。明治39年橋見村と伊保村が合併し保見村となり、保見村大字伊保となる。昭和30年猿投町大字保見。昭和45年豊田市の八草・広幡・大畑・篠原・田籾・保見・保見ケ丘・東保見・貝津・浄水・大清水・伊保町となる。

記録
 江戸期、加茂郡伊保郷。慶長5年伊保藩領、寛永15年幕府領。


地勢
 矢作川中流右岸に位置する。

名所旧跡
 児子口古墳、県史跡の豊田大塚古墳がある。

地名の変遷
 古くは衣と書いた。江戸期の天和年間頃に挙母と書き改めたという(豊田市史2)。
 奈良期~平安期、三河国加茂郡挙母郷。南北朝期~戦国期、三河国加茂郡衣郷。江戸期、挙母藩の挙母城下東町・大手町・本町・西町・神明町・北町・竹生町の7町。
 明治4年廃藩置県により愛知県加茂郡挙母村となる。明治11年からは西加茂郡。同22年挙母村となる。明治39年に梅坪村・宮口村・逢妻村・根川村を合併し、逢妻村・根川村の9大字に、旧挙母・梅坪・宮口の各村域をそれぞれ挙母・梅坪・宮口とし、計12大字の編成となる。
 昭和26年市制施行挙母市となる。昭和31年年高橋村を合併。昭和34年1月1日豊田市と改称。昭和34年1月1日に旧町村・大字が町となる。平成17年4月1日稲武地区・旭地区・藤岡地区・小原地区・下山地区が加わる。

記録
 南北朝期~戦国期、猿投社領。江戸期、三宅康貞領・幕府領・本多忠利・内藤氏(桜城築造中止)・七州城(新挙母城)は、三河・信濃・美濃・尾張・伊勢・近江・伊賀の7ヶ国の山を望めたという。城は現在、市の美術館に使われている。
 大正9年豊田自動織機製作所の豊田喜一郎は町当局と契約して下市場に広がる荒野である論地ケ原の土地買収に着手し、翌10年約60万坪を買収、同13年近代的な自動車生産工場である挙母工場を完成させ、トヨタ自動車工業株式会社が誕生。

寺社
 当郷には雲林寺・真蔵院などの寺院が知られる。他に子守大明神社、陽竜寺、八幡宮、山定院、洞泉寺、薬師堂、神明社、浄久寺、児口神社、若宮八幡宮(川西八幡)、曹洞宗神竜寺、真言宗水音寺、浄土宗紫雲院洞泉寺、浄土宗昌樹院、浄土宗採養院、浄土宗薬王寺、真宗大谷派陽竜寺などがある。

矢作川の水害
 宝暦6年秋、同7年夏と続いて挙母城下が大洪水に見舞われた。さらに同13年、明和2・4・5年にも大水害があった。大手門前の水かさは約6m、城中も床上1.8mと記録されるほどであった。『角川地名大辞典』


地勢
 矢作川中流右岸の平野部に位置する。

名所旧跡
 上野の北端から隣松寺・渡刈を過ぎ、舟で矢作川を越して岡崎へ出る旧鎌倉街道の跡が残る。

地名の変遷
 明治39年碧海郡の寿恵野村・和会村・畝部村・桝塚村・上野村が合併し、上郷村成立。桝塚村・上野村を除く合併各村の大字を継承した14大字に桝塚・上野を加えた16大字を編成。役場を上野に設置。昭和36年町制施行により上郷町となる。
 同39年豊田市上郷町となり、町制時の16大字は同市の大字に継承。昭和42年豊田市上郷町。各大字は町となる。

記録
 昭和47年一部を桝塚西町に編入し、永覚町の一部を編入。昭和51年国鉄岡多線開通により三河上郷駅開設。『角川地名大辞典』


 逢妻男川と逢妻女川流域の丘陵地に所在。昭和40年頃からトヨタ自動車の高岡・堤工場が新設され工業地域へ変わりつつある。
 明治39年碧海郡竹村・若園村・堤村・駒場村が合併して高岡村成立。10大字を編成。明治42年岐阜県揖斐郡の窪田喜内の同志3名が山林25町を買収し開墾に従事。大正10年から昭和15年にかけて高岡村耕地整理組合により304町が美田となる。昭和31年町制施行高岡町となる。同40年豊田市の一部となり、町制時の10大字は同市の大字に継承。昭和43年10大字は町となる。当地方の豪農六鹿清七により建てられた六鹿邸と庭園を昭和56年から六鹿会館と称した。


豊田市逢妻町の沿革

 明治22年西加茂郡土橋・本地・千足の3ヶ村が合併して逢妻村誕生。明治39年挙母町の一部となり、昭和34年豊田市逢妻町となる。逢妻町は、逢妻男川・逢妻女川中流域に位置し、町名はこの川名による。

刈谷市逢妻町の沿革

 碧海台地の西端、逢妻川左岸に位置する。地名は逢妻川による。明治22年の碧海郡の熊・高津波の2ヶ村が合併して逢妻村成立。旧村名を継承した2大字を編成。明治39年刈谷町の一部となり、村制時の2大字は同町の大字に継承。昭和35年~現在の刈谷市逢妻町。

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地勢
 矢作川左岸に位置する。

名所旧跡
 縄文時代の竹ノ下遺跡・宇内戸遺跡・桑凹遺跡がある。山本古墓をはじめ古石塔が7か所に散在。白鳥神社には文明4年の棟札が残る。

地名の変遷
 江戸期は 三河国加茂郡有間村。明治11年東加茂郡有間村。同22年野見村の大字有間となる。明治39年旭村大字有間、昭和42年からは旭町の大字有間。明治45年杉本の一部(旧大字菊田)を編入。昭和24年一部(小田地区と旧大字菊田の地域)が小田となる。平成17年から豊田市有間町となる。


地勢
 城ケ山の北西麓に位置する。地名は焼畑にちなむ。

地名の変遷
 江戸期~明治22年:三河国加茂郡夏焼村。江戸前期からは設楽に編入。明治11年北設楽郡に所属。同22年稲橋村の大字となる。昭和15年からは稲武町の大字。平成17年から豊田市稲武町となる。

記録
 地内の稲橋に近い所にシホヤマという地名があり、天正の検地帳には夏焼村でなく塩山村と記されている。浅間神社の奥からは鉱泉が湧出しており、現在も夏焼温泉として利用されている。この辺りはシホノタワという地名で、南北朝の争乱の際に御所貝津の真弓山に潜居していた尹良親王が軍需用の岩塩を採掘したという伝説がある。
 当村では稲橋村の古橋源六郎暉皃の呼びかけにより天保初年頃より植林を始めたが、この時29名が規定書に署名をしており、現在に引き継がれている共有山の運営組織である二十九戸会の創始といえる。
 伊那街道が通り、江戸後期には農間に馬による運送業を営む者もあった。阿弥陀堂や観音堂があった。氏神は浅間神社。
 明治30年頃より馬車運送、昭和初期にはトラック運送に変わった。大部分が山林で、明治30年頃立野地区には沢水を利用した水力による製材所があった。『角川地名大辞典』


誕生
 昭和42年豊田市上中島・川端・中切・宗定の一部が起立し誕生し、豊田市畝部東町となる。
 地名は、当地が往時采女郷の地で「和名抄」の名残による。

記録
 昭和55年中切配水場、同56年柳川瀬公園設置。


地勢
 矢作川中流の右岸平野部に位置する。

地名の変遷
 奈良期~平安期、三河国碧海郡采女郷。「和名抄」三河国碧海郡十六郷の1つ。比定地は采女と畝部が音通として豊田市畝部東町・畝部西町を含む明治期の畝部村を中心に比定する「地名辞書」。
 鎌倉期~戦国期、碧海郡碧海荘宇禰部郷。明治22年碧海郡畝部村。中切・宗定・川端・上中島・阿弥陀堂・国江・配津の7ヶ村が合併して畝部村成立。明治39年上郷村大字畝部。昭和36年上郷町大字畝部。同39年豊田市上郷町大字畝部。昭和42年豊田市西畝部町・畝部町東町となる。

記録
 明治用水が開削され、稲作農業を主体とし、養蚕を副業としていた。『角川地名大辞典』


地勢
 矢作川と巴川の合流点付近の矢作川右岸に位置する。

名所旧跡
 地内に先土器時代の大明神遺跡、縄文時代の北田遺跡と西糟目遺跡(消失)、古墳時代の鳥狩塚遺跡などがある。

地名由来伝
 「碧海郡誌」が「持統上皇参河に御幸時、末の原野に於て鷹刈し玉ひしより起れり」と誌し、渡刈は鳥狩の義であるとする。

地名の変遷
 戦国期、三河国碧海郡碧海荘都賀利郷。
 江戸期、碧海郡渡刈村。明治22年寿恵野村の大字となる。明治39年上郷村、昭和36年上郷町、同39年からは豊田市の大字となる。同42年豊田市トヨタ町・豊栄町・幸町・渡刈町となる。

記録
 岡崎藩領・幕府領・岡崎藩領を変遷。矢作川右岸にあたるためたびたび洪水にあい、ことに明和4年の大洪水によって堤防が決壊したので、水難を避けて高台へ移る者が多くなり、北の高台を上渡刈、従前の地を下渡刈と通称するようになる。末野ケ原は広大な原野だが、別名を論地ケ原ともいった。この別名は、明和年間に鴛鴨村・大林村・下市場村との間に土地争論が起こり、和解して境界が定められたことによる。昭和34年伊勢湾台風により矢作川渡刈二重堤が決壊。

寺社
 浄土宗大通院がある。仁寿元年創建と伝える糟目春日神社は、古来糟目神社と称していたが、宮路村(岡崎市)の糟目神社と明治5年社名論争を起こしたのを契機に改称。『角川地名大辞典』