地名の由来

地名の由来

地勢
 矢作川支流田代川上流域に位置する。

名所旧跡
 地内から縄文土器が出土。

地名の変遷
 江戸期、三河国加茂郡大ケ蔵連村。岡崎藩領、幕府領を変遷。明治11年西加茂郡に所属。同22年福原村大字大ケ蔵連。明治39年小原村大字大ケ蔵連。平成17年4月1日豊田市大ケ蔵連町となる。

記録
 字「入り」に昭和35年まで郷倉があった。

寺社
 鎮守は雑敷村の八柱神社。字入りに地蔵堂がある。


地勢
 矢作川水系東市野々川流域に位置する。

地名の変遷
 明治13年西加茂郡市野々村が改称して東市野々村成立。明治22年福原村大字東市野々。明治39年小原村大字東市野々。昭和48年小原村大字東郷となり東市野々抹消。平成17年豊田市東郷町となる。


地勢
 矢作川支流李川中流域に位置し、その支流大沢川が流れる。

名所旧跡
 大沢川沿岸の黒雲母花崗岩は李石といわれ、墓石などに利用されている。

地名の変遷
 室町期、三河国加茂郡スモゝ村。
 江戸期、加茂郡李村。岡崎藩領・幕府領・旗本久世三四郎知行を変遷。
 明治11年西加茂郡に所属。同22年本城村大字李。明治39年小原村大字李。平成17年豊田市李町となる。

寺社
 字砂場に「しば神」と称される2基の無名石塔があり、付近の柴を折って手向ける信仰が現在も続いている。字下平に応永19年の勧請という鎮守神明神社がある。字榎坂に浄土宗善寿院があった。

記録
 明治45年瑞浪街道(足助~岐阜県瑞浪間)開通。明治38年~大正6年まで水車動力によるガラ紡工場があった。

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地勢
 矢作川支流細田川流域に位置する。

地名の変遷
 江戸期、三河国加茂郡細田村。明治6年西細田村と改称。明治11年西加茂郡西細田村。同22年本城村大字西細田となる。
 明治39年小原村大字西細田。平成17年4月1日から豊田市西細田町となる。

寺社
 字釜ケ洞に長禄3年細田村・平畑村両村民が加賀の白山から勧請して建立した鎮守白山社がある。境内社御鍬神社は、明和4年小原之内42ヶ村の郷社として勧請され、毎年8月22日を例祭と定め、小原42ヶ村が献馬・棒の手・砲発・花火を献じたが、明治6年頃から白山社の末社となった。字入洞に曹洞宗全光寺、字釜ケ洞に薬師堂、字紺家洞に鱸城四観音の観音堂、字大箕に地蔵堂、字母生父に不動堂がある。


地勢
 矢作川支流丹波川中流域に位置する。

地名の変遷
 明治6年丹波村が改称して加茂郡西丹波村成立。明治11年西加茂郡西丹波村。明治22年清原村大字西丹波、明治39年小原村大字西丹波。平成17年4月1日から豊田市西丹波町となる。

記録
 明治25年南北街道(知立~野原間)、明治45年飯田街道(名古屋~長野県飯田間)開通。

災害
 昭和47年の集中豪雨では山崩れ・崖崩れで家屋倒壊、山津波で田畑・道路の流失・埋没など被害激甚であった。


地勢
 矢作川上流左岸の山間部に位置する。

名所旧跡
 飯田街道が通る。

地名の変遷
 江戸期は三河国加茂郡中切村。明治11年西加茂郡中切村、同22年中野村大字中切、同39年石野村大字中切、昭和30年猿投町大字中切、同42年からは豊田市の大字中切。昭和45年豊田市中切町となる。

寺社
 神明宮がある(現:神明神社)。


地勢
 矢作川中流左岸部の山間部に位置する。

地名の由来
 式内社野神社の入り口にあることによると云う。

名所旧跡
 飯田街道が通る。

地名の変遷
 室町期~戦国期は三河国加茂郡足助荘野口郷。江戸期は三河国加茂郡野口村。幕府領・大名石川氏領・旗本石川氏知行(大島陣屋)・大名成瀬伊豆守領を変遷。
 明治11年西加茂郡野口村、同22年中野村の大字野口となる。明治39年石野村大字野口、昭和30年猿投町大字野口、同42年からは豊田市の大字野口。昭和45年豊田市野口町となる。

寺社
 式内社の野社明神(野神社)、八幡社、御鍬神社がある。寺院は真宗大谷派増慶寺・因超寺がある。増慶寺は推古天皇7年の創建と伝え、もと天台宗という。永禄6年の三河一向一揆の際、菅田和(現:足助町)に逃れた本證寺空誓を助けた門徒山中14ヶ寺の1つ。


地勢
 矢作川中流域左岸の山間部に位置する。

地名由来伝
 谷間や山中に千鳥が鳴いていたことにちなむと伝える。

名所旧跡
 先土器時代の千鳥遺跡がある。千鳥寺には寛正5年の雲版刻銘、永享元年の梵鐘銘写が伝存し、梵鐘銘写には「三州賀茂郡高橋庄東方中鹿野郷千鳥山護持禅院」とある(豊田市史6)。

地名の変遷
 江戸期は、三河国加茂郡千鳥村。明治11年西加茂郡千鳥村、同22年七重村大字千鳥、同39年石野村大字千鳥、昭和30年猿投町大字千鳥、同42年豊田市大字千鳥。昭和45年豊田市千鳥町となる。

記録
 文久2年の村絵図によると千鳥ケ池と二ツ池に通じる川が南北に縦貫し、集落は川の東に点在。びくに街道にある辻地蔵には「左なかかね右もとやまなか」と刻まれている。寺社:曹洞宗千鳥寺は応永元年三宅氏の創建といい、宝永4年に焼失したが、翌年から再建を開始し、本堂は正徳4年に再建。白山神社は千鳥寺の守神を村の氏神としたもの。万延元年~明治4年には千鳥寺で寺子屋が開かれていた。


地勢
 矢作川中流左岸部の山間部。

地名由来伝
 地内に金石という大きな石があったことによるという(同前)。

名所旧跡
 広瀬三宅氏の家臣三宅豊後守の居城という中金城跡がある。

地名の変遷
 「和名抄」に見える加茂郡加禰郷の地に比定される。往古は中鹿野と称し、文明年間に中金と改称したという(西加茂郡各村沿革調/豊田市史8)。室町期は、三河国加茂郡高橋荘中鹿野郷。明治11年西加茂郡中金村、同22年中野村大字中金、同39年石野村大字中金、昭和30年猿投町大字中金、同42年豊田市大字中金。昭和45年豊田市成中金町となる。

寺社
 岩倉神社・真宗大谷派中金寺があり、岩倉神社には文化5年の棟札の残る農村歌舞伎の舞台がある。明治6年の中金村私立社堂書上帳には、排仏毀釈によって路傍の石仏まで廃却したとある(豊田市史3)。

記録
 明治9年野口学校中金分校が開設、同17年独立して中金学校となる(現中金小学校)。昭和3年三河鉄道(現:名鉄三河線)の知立~西中金間が開通し、西中金駅が開業。西中金~足助間のバス営業開始。


地勢
 矢作川中流域左岸の山間部に位置する。

地名の変遷
 江戸期は、三河国加茂郡成合村。明治11年西加茂郡成合村、同22年七重村大字成合、同39年石野村大字成合、昭和30年猿投町大字成合、同42年豊田市の大字成合。昭和45年豊田市成合町となる。

寺社
 八柱神社、真宗大谷派成合教会があり、子安地蔵は安産の神として「お子安さん」と親しまれている。