夏焼村の沿革
地勢
城ケ山の北西麓に位置する。地名は焼畑にちなむ。
地名の変遷
江戸期~明治22年:三河国加茂郡夏焼村。江戸前期からは設楽に編入。明治11年北設楽郡に所属。同22年稲橋村の大字となる。昭和15年からは稲武町の大字。平成17年から豊田市稲武町となる。
記録
地内の稲橋に近い所にシホヤマという地名があり、天正の検地帳には夏焼村でなく塩山村と記されている。浅間神社の奥からは鉱泉が湧出しており、現在も夏焼温泉として利用されている。この辺りはシホノタワという地名で、南北朝の争乱の際に御所貝津の真弓山に潜居していた尹良親王が軍需用の岩塩を採掘したという伝説がある。
当村では稲橋村の古橋源六郎暉皃の呼びかけにより天保初年頃より植林を始めたが、この時29名が規定書に署名をしており、現在に引き継がれている共有山の運営組織である二十九戸会の創始といえる。
伊那街道が通り、江戸後期には農間に馬による運送業を営む者もあった。阿弥陀堂や観音堂があった。氏神は浅間神社。
明治30年頃より馬車運送、昭和初期にはトラック運送に変わった。大部分が山林で、明治30年頃立野地区には沢水を利用した水力による製材所があった。『角川地名大辞典』