平井町の沿革
地勢
矢作川の左岸、挙母盆地の東北部に位置し、南部を市木川が西流する。集落は、北から古鼠、百々、平井本郷に分かれる。
地名由来伝
ひら(平)地で湧き水(井)がある地形によると云われる。
名所旧跡
中世には矢作川の河港である平江湊があった。縄文時代の岩長遺跡、平井大塚古墳、古鼠坂古戦場などがある。
地名の変遷
〔中世〕南北朝期は三河国加茂郡高橋荘平江郷。江戸期は三河国加茂郡平井村。明治11年西加茂郡平井郷。同22年西加茂郡平井村。大字は編成せず。七重村・四谷村と組合村、役場を当村に置く。同39年高橋村平井となる。昭和31年挙母市大字平井、同34年豊田市大字平井。昭和34年豊田市平井町となる。
記録
江戸期に矢作川を最も遡った河港として栄え、物資輸送の中継地であった。「高橋村誌」には川船(平底の帆掛船)と中馬(荷駄馬)の運送中継問屋が数軒あったと記す。問屋の船着場は土場といわれ、上流から彦惣土場・竹長土場・築源土場・百善土場・関屋土場・平井土場があった。矢作川の川狩・筏流しは承応2年に始まる。各問屋は上流から流した木材・竹材を大筏に組み直し、川下に流す中継ぎも取り扱った。文久3年矢作川筋の材木問屋の同業組合白栄社が結成された。土場に集まる船頭・筏師・馬稼ぎ・荷運び人夫を相手とする宿屋・遊郭・各種の商店があった。河港のほか、信州に至る飯田街道の脇往還と対岸越戸村への渡船場があった。
寺社
正徳2年の寺社書付帳には曹洞宗東光院と八幡社が記される。明和4年の大洪水により八幡社神宮寺が流失。
享保8年古鼠に津島神社再建。明治5年平井郷学校が東光院に開校。同13年古鼠説教所を移転再建し、のち智照寺と称す。同年平井郵便局開設。同15年上切古鼠地内と対岸越戸村の間の矢作川に平戸橋が架けられ、飯田街道が改修され、水谷街道も整備された。同17年近隣9か村が第18組戸長管区となり、村内百々に戸長連合役場を置く。舟運は、明治44年中央線の開通により衰退。筏流しも昭和4年越戸発電所ダム建設によって川並組合が解散し廃止、各商店も廃転業、営業地を移すなどした。飯田街道の平戸橋も上流に架橋。昭和18年高橋村産業統計によれば、田57町余・畑60町余、生産高は米767石余。同34年10月平井町・扶桑町・百々町となる。