野入村の沿革
地勢
野入川に沿った山間部に位置する。標高が高く、冬の寒さは厳しい。
地名の変遷
戦国期は、三河国加茂郡足助荘野入村。江戸前期からは設楽郡に編入。明治11年北設楽郡に所属。同22年稲橋村の大字となる。昭和15年からは稲武町の大字。平成17年より豊田市野入町となる。
寺社
氏神である神明神社(天正10年創建)の一隅にある山礎之碑にはこの顛末が記されている。
記録
大部分が山林であるため境界争いが多かった。古くは信州月瀬村と杣路峠の境界争いがあり、宝永5年には根羽村との山論があった。享保12年の当村と稲橋村・武節町村・桑原村との騒動では乱闘の末に武節町村庄屋(村長)が死亡し、翌年、責任を一身に背負った野入村庄屋の源蔵は死罪となったが、村人からは義人として称えられた。
伊那街道が通り、明治15年には同街道の足助~野入間を改修。
江戸期からの馬稼ぎも活況を呈したが、明治45年の中央線の開通、荷車・自動車の発達により、大正末期には付馬の姿も見られなくなった。主産業は米作・養蚕を中心とした農業や林業であったが、昭和30年代より勤めに出る人が多くなり、大部分は兼業農家。昭和55年頃より全面的な圃場整備開始。